そういえば先日に、
久しぶりの、テレビの取材がありました。
(山陽放送VOICEさん)
時期ものと思い、『鮎』と『胡瓜』を
選択したのですが、少しはずした感じを味わいつつ‥ロケ終了。
初夏の新緑の景観と、鮎と胡瓜の相性は、
「夏の訪れを告げるもの」
として、個人的に気に入ってはいるのですが…。
やはり、鰆か、鱸か、べえすけにするべきだった‥のか。
“鮎とんで出よ 手をすけて 我待つぞ”子規
初夏の情景。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
西郷きゅうり(去年見かけた昔の胡瓜)も 出番は まだか、と。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
もうすぐに、縁側の田圃も、水田になる。
そして、彼らが‥帰ってくる。
土と空間と時間が、離れがたくなっている食堂‥。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
宮台先生(社会学者)のブログに、
『食について』の記載がありました‥。
これからの、道標として、転記。
感心のあるかたは、是非読んでください。
宮台◇ [映画『世界が食べられなくなる日』に登場する、遺伝子組換食品を2年間与えたマウスがどんな健康上の影響を受けるかという実験では、
通常の食品安全テストが3カ月で終わるのに対して3ヶ月テスト期間を過ぎた4カ月目から異常生まれるのですね。
宮台◇ [映画は]社会学者ウルリッヒ・ベックのリスク社会論を踏まえたのでしょう。
映像作家がこれを踏まえるのは素晴らしい。ベックは19世紀的リスクと20世紀的リスクを区別し、
20世紀的な高度技術は事故に際して予測不能・計測不能・収拾不能なリスクを抱えるとします。典型が原子力発電と遺伝子組換作物です。
20世紀的な高度技術は総動員体制的に市民生活をどっぷり浸していて、
誰もが知らずに恩恵に預かります。
だから認知的不協和理論に従えば「意識したくない」との意識が生まれます。
普段使っている程だから目をつむればやっていけます。
それこそ「ただちに健康に影響があるわけではない」。
にもかかわらず、敢えて食品を通じた内部被曝や遺伝子組換作物の悪影響を深慮して食品を選ぶのは、專ら暇と金がある人です。
地位や生活の余裕が、問題に対処できる人と対処できない人の差になります。
ジャンクフードに親しまざるを得ない貧乏人ほどメタボシンドロームを抱える話が典型です。
宮台◇人は浅ましい存在で与えられた条件の下で自分が最大利得を得られるように行動します。ところが皆がそう考えて行動するとパレート最適ではない帰結が得られます。
つまり相手の利得も自分の利得も共に高くなるような帰結もありうるのに、
それが実現できなくなります。
これが囚人のジレンマです。
この場合「最悪事態の最小化」というマクシミン戦略からしても、
他者がマクシミン戦略をとると予想するのが合理的だという点からしても、
「協調」でなく「裏切り」を選ぶのが合理的です。
だから互いに「裏切り」あいます。
互いに「協調」した方がずっと互いの利益になると分かっていてもできません。
与えられた条件の下で最大利得を目指して行動するなら、
遺伝子組換作物に手を染めるしかありません。
でもそのようにして皆が遺伝子組換作物に手を染めた結果、
誰も遺伝子組換作物に手を出さなかった場合に比べて極度にマズイ帰結になるのです。
宮台◇ だからこそ「誰が悪いのか」を簡単に言えません。
映画には勧善懲悪の描写があり、「悪者らしい科学者」が出てきます。でも科学者の言葉は嘘じゃない。どんな技術も最初は制御不能でリスクを伴うが、そこを乗り越えれば実りある世界が訪れる…。でも皆がそれを信じるほど巨大事故が起こりがちです。
「遺伝子組換作物も研究が進めば発がん性など人体への悪影響が少ないものが作れるはず。
どんな技術も初めはコストもリスクも大きいが、
だからヤメるのでは将来あり得る無害な遺伝子組換作物の可能性を放棄することになる」と考えて不思議はありません。
むろん、開発段階の有人ロケットが打上失敗で多数のを失ったのと違い、原発や遺伝子組換のリスクは一度現実化したら帰結が予測不能・計測不能・収拾不能だという決定的違いがあり、それを無視した開発続行は「後は野となれ山となれ」の非倫理を含みます。
宮台◇ 僕らが食べる豚や牛などの食肉がどう生産されるのかが描かれます。
卵がどのやって鶏になり食肉になるのか。目を塞ぎたくなる光景ばかりです。
ひどいのは牛や豚。
僕らが知る牧畜や養豚とは似つかない営みがあります。
動けないようにして糞尿の中で倍の速さで肥育された動物は自力で歩けません。
宮台◇ショッキングなのは遺伝子組換の激安トウモロコシを牛に与える光景。
牛はトウモロコシを食べません。
トウモロコシを食べると胃が大腸菌だらけで病気になるからです。
この自然の摂理を無視して牛の体側に穴を開け、トウモロコシをチュウブから直接注入して瞬時に太らせて、病気になる前に出荷します。
宮台◇ 思考の刺激という点で重要なのは、最後にウォールマートが出てくること。
以前マル激で、「顔を見える範囲に向けて作って売るがゆえに善意が働き、それを見て買うがゆえに高めに支払う」という「スローフード」に恐れをなしたウォールマートが、90年代半ばに「ロハス」を打ち出したことをお話ししました。
うちは有機野菜やトレーサブルな食品しか並べませんいうマーケティングです。顔が見えるどころの話じゃなく、巨大システムでナチュラルなものをさばきます。で有機農法を選んでいるのでなく、マスコミの影響で消費者が有機に飛びつくようになったので儲かるからやっています。さて、それは悪いことか。 違います。
市場均衡はパレート最適点ですが、効率配分を意味しても公正配分を意味しない。
その証拠に、ゲーム開始段階での社会成員全体への初期手持量の配分と選好構造の配置で、パレート最適点が変わります。パレート最適点が公正を意味するようにするには、初期手持量と選好構造をいじらねばなりません。 初期手持量の配分に政治介入するのが福祉国家的な再配分政策です。
第二次大戦後に活躍した社会学者パーソンズは、
市場が公正配分から乖離すると革命が起こって資本制社会の存続が危ういとの観点から、再配政策に留まらず、人々の選好構造をいじることを考えました。要は消費者の価値観が市場を作る、と。
この考え方は、先進国で「補助金行政」にかわって標準的になった「政策的市場」に通じます。
環境に優しいエネルギーを売り買いすると儲かるようなルールを作ることや、
値が張っても環境に優しいエネルギーを選好するような価値観を唱導することで、
市場での生産者と消費者の行動傾向を制御するわけです。
具体的にはこういうことです。
安売りスーパーが「安価で危険な食品」を売り、規模の小さい自然食品店が「高価で安全な食品」を売る状況では、「安全な食品」を求めているのに「高価」を理由に購入できない市民が出てきます。これでは、需要と供給の合致したパレート最適点でも、社会的に正しくありません。
ところが、安売りスーパーが積極的に「安全の大切さ」を称揚することで、
以前よりずっと多くの消費者が「安全な食品」を求めるようになって流通規模が膨らめば、「高価で安全な食品」がどんどん安価になります。こうして、需要と供給の一致したパレート最適点が、社会的に正しいものに近づいていくわけです。
宮台◇ [映画『ありあまるごちそう』に描かれたフランス人漁師の話は]EU統合の暗黒面です。
EU統合で標準フォーマット化が進み、大型漁船での操業が一般化します。
これでは資源のサステナビリティが危うくなるし、
大量に漁獲して長時間運搬するので鮮度の低い魚が出回ります。
でも食べ物の持つ意味が生活の中で変わってしまったので、問題にならないのです。
ジャンクフード化で、「どうせ加工するんだから鮮度なんか関係ないさ」と質のいい魚を提供できる漁法に消費者が関心を持ちません。「どうせ加工品なのだから原料が魚だろうが家畜だろうがOKさ」と漁業資源の枯渇に関心を持ちません。
スローフード化とジャンクフード化が逆ベルトルだということです。
宮台◇ [映画『よみがえりのレシピ』が描く、現地野菜を使って料理を作るイタリアンレストラン「アル・ケッチァーノ」について]やはり規模が重要です。
規模が小さいと、お金持ちが趣味で生活の豊かさを楽しむだけという話になりがちで、
社会的価値にまで至れません。
冒頭に申し上げた「それどころじゃない問題」に突き当たったとき、
それでも消費者が大規模に「裏切り」ならざる「協力」戦略をとれるか否かです。
この壁を超えるには、「協力」をした方が結果的に儲かるというより、
「協力」すること自体に価値があるとのエートス=心の習慣を涵養する他ありません。
こうした価値を涵養する手段として、人々が目先の損得で「裏切り」を選択すると近い将来に破滅が訪れるという恐怖感を利用するのもアリです。
宮台◇ 皆さんに踏まえていただきたいのは、「安心・安全・便利・快適」であれ、
よく見えない巨大システムに依存するのはやめるべきだということ。
プロセスが見えないものは、大事故に際してコントロールできず、
予測不能・計測不能・収拾不能な事態を招きます。
大震災後の僕らはそれを恐怖するべきです。
宮台◇ 原発事故に際して枝野幸男官房長官が繰り返した
「ただちに健康に影響があるものではない」を噛み締めるべきです。
食品安全テストはおしなべて「ただちに健康に影響があるものではない」ことを確かめるもの。
「ただちでなければ?」については不関与です。