讃岐地人食堂“汐さぎ!庵”は、2011年、11月11日オープンです。

“汐さぎ!庵”は、讃岐の国(香川県)の豊かな風土から生まれる四季折々のお野菜と瀬戸内海の天然の地魚を中心とした地産食材が主役の小さな食堂です。

古来より、食の基本は国内自給で、国内自給の基本は、地産地消である。

末永く『汐さぎ!庵』をご利用いただけましたら、幸いです。

2013年2月27日水曜日

連絡。と、気にかかること‥。


定休日を日曜日にしてからというもの、
土曜日と、祝日の御予約が早い段階で、
昼も夜も埋まってしまう‥現状です。

このあたり、お気をつけくださいませ。

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ねむってる‥。

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加速的に進んでいくTTP参加への道‥。
アメリカングローバリゼーションという名の
軍事力を背景にした経済的覇権追求によって、
失われていくものは、なにか?

宮台先生の「亜細亜主義と北一輝」を下に抜粋。
時間があるかたは…。


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貧乏な南側の国がある。豊かになろうとする。
そのために「近代化」しようとする。
キーワードが出てきました。「近代化」。
そのためには外貨を獲得しなければいけない。
それゆえに換金作物に作付けを換える。
すなわち一次産品を輸出して得た外貨で「近代化」する。
抽象的にいうと流動性から収益をあげようとする。
 すると国際市場で買い叩かれて構造的貧困に陥る。
それに気付いて後戻りしようにも、土地には農薬がぶち込まれてスカスカ。
マングローブは破壊され、森林は砂漠化している。
つまり伝統的な自立経済圏を支えるインフラはズタズタ。
だから永久に近代的システムに従属しつつ「構造的な貧困」に甘んじるしかない。
ここにあるのは、軍事力を背景とした経済的覇権追求というより、
「幸せになるために近代化しよう」いう「自発性」です。

亜細亜主義をどう理解したらいいか。
ここまでの話でご賢察の通りであります。
「近代化」には幾つかの異なる方向性がありえます。
その「オルタナティブな近代」を構想する思想が「亜細亜主義」であったというのが私の理解です。その理解によれば、亜細亜主義の本義なるものは恐らく三つあると思います。
 第一に、日本は徹底的に「近代化」せねば欧米列強に屠られるより他ない。
よって「近代化」を徹底すべし。
第二に、しかし「単純欧化主義」を頼るのみでは、
──先のスーザン・ジョージ思想の嚆矢と言える発想ですが──
欧米に従属的たらざるをえなくなるばかりか、
──岡倉天心に発し且つ三島由紀夫の文化防衛論にも通じる発想ですが──
日本は「入れ替え可能な場所」になってしまう。
ゆえに「単純欧化主義」たらざるべし。

言い換えれば、近代化にもかかわらず護持すべきパトリがある、とする発想です。
合理性──百歩譲って「ある種の」合理性と言いましょう──
の観点から言えば、別に他の動植物が死のうが、
琵琶湖の在来魚が死滅しようが、食いぶちと健康さえ保たれれば、
知ったことじゃないっていう立場もありうるってことです。
「いやあ、それだと心が参っちゃうよ」。
ほらね、「魂」じゃありませんか(笑)。
むろん「オレは参らないから、それでも良い」と言う方々もいるでしょう。
「それじゃ良くない」と言う方々は、合理主義的な説得によって
「それでも良いよ」と言う人々を啓蒙することは、絶対に出来ない。 
 
 実はそこが大事なんですよ。
私は〈右〉と〈左〉の定義をいろんなところで書いてきた。
〈左〉とは「解放的関心を本義と心得る立場」。
〈右〉とは「合理性のみで割り切れないと観じる立場」。
ゆえに私は〈左〉でありかつ〈右〉だとずっと言ってきた。
私がそういう立場がありうると初めて知ったのは、北一輝を通じてです。
「不合理からの解放を希求する志向」と
「合理性を弁証されざるものを護持しようとする志向」とが、
北一輝の中ではみごとに両立しています。

思想としては不完全でも、志向としては両立している。
だから、さっき、思想としてよりも、実存としてモデルたりうるのだと申し上げたわけです。
 「解放の志向」と「護持の志向」が北一輝の中では両立をしています。
とりわけ初期にはそれが顕著です。それが北の魅力です。
どちらを欠いても実につまらない。
さきほど亜細亜主義には三つの本義があると言いました。
徹底した近代化を主張する第一義が「解放の義」だとすれば、
単に近代化するのみでは自らは自らでなくなるとする第二義は「護持の義」。
この二つの義を両立させる手段が第三義の「ブロック化の義」。 
 
 難しい抽象的なロジックはどうでもいいが、
北一輝の志向に第一義と第二義が見事に解け合い、
第三義に近代革命を通じた日支連携が持ち出される。
北一輝こそ紛うことなき亜細亜主義者となすべき所以であります。
その意味でも、『国体論、及び純正社会主義』と『支那革命外史』
に見られるような彼の非常にナイーブな、
しかし後期のニヒリズムすらをも輝かせる力を持つ、
ある完結した思考のベースを分かっていただきたいと思うのです。

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